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SPECIAL INTERVIEW

vol.32 SICF受賞者特別対談 
みょうじなまえ × 笠原美智子

 

「女性」であることの困難と向き合い、作品を通して癒されていく


 

みょうじなまえは、自身の過去の体験をもとに女性の身体、性、アイデンティティと、その消費をめぐる問題をテーマにインスタレーション作品を手がけてきたアーティスト。SICF23のEXHIBITION部門では、女性の心身や性に関する問題が社会的連鎖する様を《You or someone like you》《JEWEL NURSERY》の2作品で表現した。
みょうじと対談を行なうのは1991年に日本の美術館で初となるフェミニズムの視点からの展覧会「私という未知へ向かって 現代女性セルフ・ポートレイト」展(東京都写真美術館)を企画し、展覧会の企画や著書を通して美術とジェンダーの取り組みに光を当ててきた笠原美智子。
今回はみょうじの作品ポートフォリオを見ながら、SICF23 EXHIBITION部門 グランプリアーティスト展となる個展「バベルとユートピア」(5月10日〜25日)の最新作を含む、みょうじの作品の裏側にあるエピソードや活動の根幹にある思いを探ります。

 

 

みょうじなまえ
1987年兵庫県生まれ。2019年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻油画入学、2022年同大学院自主退学。主な受賞歴に、「CAF賞2022」金澤韻審査員賞、「SICF23 EXHIBITION部門」グランプリ(2022)など。主な展覧会に、六甲ミーツ・アート芸術散歩2022、個展「Some Fairy Tales」(2022/Taku Sometani Gallery/東京)など。過去の体験を契機に、女性の身体、性、アイデンティティと、その消費をめぐる問題をテーマに作品制作を行なう。

 

笠原美智子(かさはらみちこ)
1957年長野県生まれ。1983年明治学院大学社会学部社会学科卒業。1987年シカゴ・コロンビア大学修士課程修了(写真専攻)。東京都写真美術館事業企画課長を経て、2018年より石橋財団アーティゾン美術館副館長。主な著作に『ジェンダー写真論 増補版』(里山社、2022)、『ジェンダー写真論 1991 – 2017』(里山社、2017)、「私という未知へ向かって 現代女性セルフ・ポートレイト」展 (東京都写真美術館、1991) を皮切りにジェンダーに関する展覧会を多数企画。2005年には第51回ヴェネチア・ビエンナーレ美術展日本館コミッショナーとして「石内都:マザーズ 2000-2005 未来の刻印」展を開催。

 


 

作品の根幹にある母とジェンダーの問題

 

 

—今回の対談は、みょうじさんの強い希望により実現しました。みょうじさんは笠原さんの著書『ジェンダー写真論』を繰り返し読み、そこに書かれたアーティストたちの活動に励まされてきたそうですね。

 

みょうじ:はい。私は大学入学後、女性のセクシュアリティやジェンダーに関する作品を作ってきたのですが、『ジェンダー写真論』を読むまで自分の作品の明確な意図や背景についてあまり考えていませんでした。でも、友人に薦められて『ジェンダー写真論』を読んだとき、私と同じようなことを考えているアーティストがいることにとても励まされ、自分の活動にも自覚的になりました。今日は笠原さんにお会いできて嬉しいです。

 

笠原:それは私としても活動してきた甲斐がありますね。みょうじさんはこれまでどんな作品を作ってきたんですか?

 

みょうじ:まず、大学1年生のときに作った、シニアカーにドレスの外装を取り付けた《Princess Go!Go!》は、車に乗ると強制的にお姫様になるという参加型の作品です。私は30歳手前で大学に入ったこともあり、今振り返ると、作品の根元には女性のエイジズムやルッキズムのコンプレックスがあったように思います。その後も、プラスチック製の宝石シールを身体の表面に貼り巡らせたセルフポートレイトの《Untitled》をはじめ、卒業制作に至るまで一貫して「女性性」を問う作品を作ってきました。SICF23のEXHIBITION部門でグランプリをいただいた《You or someone like you》と《JEWEL NURSERY》はそのセルフポートレイトから派生した、5つのモニターからなるインスタレーションとおもちゃ売り場を模したブースで構成した作品で、これは大学院時代に制作したものです。映像の中では私が人形を出産し、その人形に自分と同じようにプラスチック製の宝石シールを貼り付けていく様子が映っています。

 

《You or someone like you》《JEWEL NURSERY》(2020)ミクストメディア SICF23 EXHIBITION部門 グランプリ受賞作品    

 

笠原:しかも、みょうじさんは出産した人形の羽根や尻尾をもぎ取っちゃっているのね。

 

みょうじ:はい、人形を自分と同じ形に切り整えていくというイメージです。

 

—親が子を無理やり思い通りにコントロールする様を想起させますね。

 

みょうじ:私が最近作った作品のひとつに、ヘンリック・イプセンの戯曲『人形の家』と、私がこれまでに体験した出来事を小説にしたテキストを織り交ぜてインスタレーション化した《人形の家》というタイトルのインスタレーションがあります。イプセンの『人形の家』は、夫とのコミュニケーションシップに疑問を抱いた主人公が家を出て行ってしまう話なのですが、私の母も家を出て行ってしまったので、主人公と母、当時の母と同じような年齢になった自分を重ねた作品になっています。

 

笠原:お母様はみょうじさんが何歳のときにいなくなったの?

 

みょうじ:12、3歳くらいのときです。

 

笠原:それはきついね。

 

みょうじ:私と母には別の問題もありました。私は3人きょうだいの末っ子として生まれたのですが、母は3人目はどうしても男の子がよかったようで、私はずっと男の子の洋服やおもちゃを与えられ、息子のようなコミュニケーションを求められていました。そんなこともあって、私はキラキラかわいいものに対するコンプレックスを抱き続けています。

 

笠原:そうなるのは当たり前だよね。

 


《人形の家》(2022)ミクストメディア

みょうじ:ただ、今の社会のジェンダーの規範がはっきりと分かれていなければ私もそんなに苦しむこともなかったものなのかなと思い、《人形の家》ではその思いと現実を反映しています 。

 

笠原:みょうじさんの作品は非常に興味深いけど、作品というのはいくつかの作品を何度か見て咀嚼していくものだからすぐに言葉にしろと言われても難しい。ただ、ここまでストレートに母と娘の関係を作品化した日本人の作家というのは、石内都さんの《mother’s》や鈴木涼子さんの作品くらいで、それほどいないのではないかと思うのと、トラウマをちゃんと客観的に作品化していますね。
たとえば私は《人形の家》の個人的な体験をもとに制作され、それが一般的なイマジネーションを伴う作品になっているところに惹かれます。小説を読んだ人はそのストーリーを頭に置いて作品を見ると思いますが、映像の中で非常に生々しいシーンがあり、その場面ではストーリーを忘れちゃう。その突出したイメージを文脈の中で評価する人々と、その生々しさで作品の「読み」をやめちゃう人がいて、男性はやめちゃう人が多いかもしれない。

 

表現しなければ苦しくなってしまうアーティスト

 

—スパイラルで5月10日から25日まで展示する個展「バベルとユートピア」はどのような展示でしょうか?

 

みょうじ:私自身が受けた性的被害の体験と、ギリシア神話で語り継がれてきたものを織り交ぜながら作品化した《バベルとユートピア》を展示しています。映像を映し出すモニター自体を劇場にして、舞台はすべて書割で構成しました。書割って大道具なので絶対主役にはなり得ないですよね。でも、書割に女性のあり方を重ね大々的にインスタレーションにすることで、男性中心的な社会の中で弾き出されてしまった、男性にとっては都合の悪い女性を主人公にできるのではないかと思いました。

 

笠原:先日、実際に《バベルとユートピア》を拝見しましたが、自分の辛い経験をそのままにせず、その歴史的・社会的意味を明確にしたうえで多くの鑑賞者の想像力を刺激するような洗練された作品になっていました。逃げるシーンが美しいのと同時に悲しい。作品の裏側に回ってQRコードを読み取って、この作品のもとになったメッセージもぜひ読んでほしいです。あと、みょうじさんのこれまでの作品より間接的な表現になっていて、男性には見やすくなっているとも思いましたね。

 

みょうじ:そうですね。私の作品を見た男性からは「責められているみたい」と言われることが結構あって。

 

笠原:責めてるんだよ(笑) 。

 

みょうじ:はい(笑)。自分に起きた出来事を客観視して人に提示するということはすごく難しく苦しい作業なのですが、《バベルとユートピア》 も《人形の家》も、作品化のプロセスで頭の中が整理され、語ることで癒されるみたいなところはあるのかなと思います。

 

《バベルとユートピア》 (2023)ミクストメディア

 

 

—笠原さんは、みょうじさんが作られるようなジェンダーに関する作品を受け入れる日本社会や人々は変わってきたと思いますか?

 

笠原:私は1991年に初めて東京都写真美術館で「私という未知へ向かって 現代女性セルフ・ポートレイト」展というフェミニズムの視点からの展覧会を企画して、2005年には東京都現代美術館で、日本の現代美術館の新進作家展では初となる、フェミニズムやジェンダーを扱った展覧会「MOTアニュアル2005 愛と孤独、そして笑い」を企画しました。そのとき、91年の女性を巡る状況と違っているのかという命題を出したのですが、女性の意識は90年代からガラッと変わっている。だけど家父長制的な国のシステムは変わらない。そして2005年から18年経って今、同じ質問をしたら、やっぱり同じなんですよね。女性の意識は変わったし、それに伴い、並走してくれる2、30代の多くの男性の意識も変わったけれど、システムはあまり変わらないし、世界の状況を見ると相対的に日本が取り残されているのが現状だと思います。美術のほうでは、キュレーターやジェンダー研究者の努力も多少は影響しているかもしれません。2000年代になってから様々な国際芸術祭が開催されて、ちょっと悪口を言えばいろいろな国の作家さんの作品を文脈なく輸入したことで、ジェンダーに向き合うアーティストの作品を見る機会は増えたと思うんですよ。アーティストにとっては、海外で活動している作家との同時代性を意識しながら活動していけるのが2000年代以前との大きな違いだと思います。

 

 

—みょうじさんは『ジェンダー写真論』に励まされながら作家活動を続けてきた面もあると思います。最後に、笠原さんからみょうじさんにエールをお願いできますか?

 

笠原:やはり、大学を離れた後も作品を作り続けるって大変だと思うんです。でも、どういう形でも表現しなければ苦くなってしまうというアーティストはいるんですよ。みょうじさんを見ているとそういうタイプなんだなとお見受けするので、そういう人は否が応にもやるしかない(笑)。あとは日本は精神的に鎖国をしているような状況で閉塞感があるので、たまには海外に出たほうが深呼吸できるんじゃないですかね。長く滞在するとその国なりの大変さというのがあるので、1年間くらい経ったらまた次の場所に移動してみるとか。どこにも属さない気楽さを味わいながらちょっとお休みみたいな時間は、人間誰しも必要ですから。それに、日本語を話しているのにまったく通じない人たちはほっといて、言葉や宗教、生活習慣が違っても、現代を生きていて同じように感じて同じような課題に取り組み表現しているアーティストやキュレーターは多いので、そうした人たちとつながるほうが楽になります。

 

インタビュー・文 堀添千明

Photo: Kazue Kawase