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SPECIAL INTERVIEW

vol.26 特別寄稿 南條史生

【※この対談は、2020年3月30日発行のスパイラルペーパーno.152に掲載されたものです。】

 

スパイラルと私 黎明期の模索  南條史生


私がスパイラルとの交流を持ったのは、すでにスパイラルが開館した数年後だったような気がする。しかし開館の際のタイのゲイボーイのイベントは見た記憶があるので、オープニングに招待はされたのだろう。開館後数年して、中枢のメンバーとコンセプトや企画を話し合うようになった。それは森美術館が登場するはるか前の時代であった。

もっとも印象が深いのは、80年代末のバブル崩壊後に、落ち込んだ日本社会に対し、アートの企画を打ち続け、社会に活力を取り戻そうと言うことで、1993年に始まった「ART LIFE 21」のシリーズであった。その中でも、第一回の目玉企画の一つが、オノ・ヨーコさんを招聘して開催したシンポジウムと展覧会だった。彼女は、「人間らしく生きる」というメッセージを発信するのに、語り部として最もふさわしいのではないかということで提案されたものだ。方向が定まったところで私が彼女に連絡を取り、シンポジウムと展覧会が実現した。

 

「ART LIFE 21 – 人間になろう」参加企画

「オノ・ヨーコ展『ENDANGERED SPECIES 2319-2322』」会場風景(1993)

 

しかし最大のイべントは、その翌年に開催された「人間の条件展 私たちは、どこへ向かうのか。」であった。人間の条件展は、金満主義で異常な状態に陥った日本のバブル経済が崩壊した後、何が生きる目的なのか、幸せとは何かという哲学的な問いかけをもって構成された展覧会だった。海外からはマシュー・バーニーや、エド&ナンシー・キーンホルツ、ビル・ヴィオラ、アルギエロ・ボエッティなどの現代美術で先端を行く中堅アーティストを多数招聘し、そこに若手の日本人アーティストも同じように展示した。それは、日本の作家を国際的なアーティストと同格に扱い、同等の価値を付与しようという試みだった。展示もスパイラルの中の楽屋、非常階段、倉庫、トイレなど、使えそうな空間を縦横無尽に使った過激なものとなった。このような実験的な展覧会は、その頃は世界的に見ても珍しい試みだった。結果としてNHKからだけでも5つくらいの異なった番組が取材に来た。会期最後の数日は、毎日1万人が入場したことを記憶している。

 

「ART LIFE 21 – 人間になろう」参加企画

「人間の条件展 私たちは、どこへ向かうのか。」会場風景(1994)

 

その後、スパイラルからはSICFの審査員を依頼され、毎年ゴールデンウィークの時期に、審査会に参加するようになった。それはジャンルを超えたクリエイティブな若者を知る良い機会になった。スパイラルは、新しい作家、若手の作家を開発し、パブリックアートや展覧会などのイベントにチャンスを開き、若手アーティストが発展する多くの機会を生み出してきた。スパイラルが果たしてきたインキュベーターとしての役割は、予想以上に大きかったのではないかと思う。
これからも、若手にチャンスを与える刺激的なアート空間であり、独自の基盤(プラットフォーム)であり続けてほしいと思っている。

 

「SICF20」会場風景(2019)photo : TADA(YUKAI)

 
 

南條史生(なんじょうふみお)

慶應義塾大学経済学部(1972年)、同文学部哲学科美学美術史学専攻(1977年)卒業。国際交流基金(1978-1986年)、ICAナゴヤディレクター(1986-90年)を経て、エヌ・アンド・エー株式会社代表(1990-2002年及び2014年-)、森美術館副館長(2002年)、同館館長(2006年11月-2019年、同館特別顧問(2020年-)。

過去にヴェニス・ビエンナーレ日本館(1997年)、台北ビエンナーレ(1998年)、横浜トリエンナーレ2001(2001年)、シンガポール・ビエンナーレ(2006年・2008年)、茨城県北芸術祭(2016年)、ホノルル・ビエンナーレ(2017年)等国際展のアートディレクションを歴任。スパイラルとは「人間の条件展 私たちは、どこへ向かうのか。」(1994年)をはじめとする展覧会企画やSICFの審査員等として協働。