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SPECIAL INTERVIEW

vol.31 SICF受賞者特別寄稿 
『窓の向こう側の世界』

『窓の向こう側の世界』

クレリア・ゼルニック
エコール・デ・ボザール・パリ教授


 ユリシーズの帰りを待つペネロペ(*)は、日々大きなタペストリーを織っては解き、その退屈をしのいでいたという。私たちはどうだったろう。パンデミックの終わりを待ちながら小さな住まいに閉じこもっていた頃、窓辺に張り付くように、いつも同じ建物のファサードを、そして一色に塗られた空の青さを、遠くから眺め過ごしていただろうか?台湾出身のアーティスト、チャンジンウェンの描く建物のファサードは、延々と幾何学模様が繰り返されるタペストリーに似ている。そのピクセル化された世界では、まるで現代的な点描画のように建物の幾つもの窓が光の点をなしている。消えたままのテレビの砂嵐状の画面、COVID-19の脅威が拡大し世界中のショーが中断してしまったようだ。正方形の窓たちは、停止した時間のなか、現実と抽象の間で躊躇っているかのように見える。

 

チャンジンウェン、《日常ー午後》(2020)、420x297mm

 

チャンの絵画には、墨、天然顔料、和紙といった日本の素材が使われている。非常に大きなサイズの作品もあり、現代的な建物の単調なパータンで生気のない幾何学が強調されている。不安で重い沈黙の中、繰り返される窓、そして人間の不在。人々の活動は感じられるものの、消されているようだ。まるで私たちの到着が遅すぎたかのように、消失した後のように……。

 あるいは、生活を想像することはできる……、窓の向こうにあるものを……、閉じ込もった、柔らかな、見えない存在を。運転中の室外機もあるし、半開きのカーテンもある、影絵のように衣服が吊るされているのも見える、何かの仕事に出かける準備だろうか。そして突然、流れる墨と天然顔料の中に微かな息づかいが聞こえ、人々の生活のあらゆる蠢きが、改めて窓の向こうに感じられるのだ。半開きの窓の向こうから、街の雑音、ざわめきや生活音が聞こえるようだ。名もなき音が止むことなく、雨戸の向こう、半透明のカーテンの向こう側で続いていく。

 深い呼吸をよぶ完璧に澄んだ空気のなか、生活は隙間や開口部、茂みの中に身を潜めているかのようだ。天然の顔料が、壁から滲みでるこうした生活を伝えている。

 チャンのいくつかの絵画では、木々の葉だけがファサードの精緻すぎる幾何学を乱しているようにも思われる。もしくは、あらゆる命、あらゆる生き物が、植物的な力に姿を変えたのだろうか。住人たちの幻のような存在もまた、この静かな揺らめきを纏っていたように。事実、窓ガラスの反対側でCOVID-19時代の人間は新たな生活様式に移行していった。それはもはや動物的な生活ではなく、柔らかで植物的な生活であり、動くことのない、幻のように揺らめく生活だ。― そう、窓の向こう側の世界で。「従属栄養」生物に対して、草木や植物、樹木等は「独立栄養」生物と呼ばれている。栄養を補給し生き延びるために移動を必要としない生き物である。植物はその場で、例えばどこかの窓の近くで、成長する。たしかに植物は動かない、けれどその不動性を補うように空に向かって成長し、様々な形で葉を茂らせるのだ。その繁茂はまさに芸術的だ。霊的ともいえる風の中に揺らぎ薄れゆく無音の影たち。人間の生活はそうした独立栄養形式に引き籠っていったかのようだ。

 建物とファサードをピクセル化したタペストリーが、花や草木のひしめきへと、捉えがたい微小な発芽、春の芽生えのざわめきへと、姿を変える。囁くような、小声の生活。まるで窓の向こうの存在すべてが、曖昧に漂いながら、ぼんやりした輪郭を揺らす植物的存在になっていくかのように。

 牢獄の壁のように閉ざされた、単調で幾何学的な現代建築とファサード。その向こうから滲みでて私たちの元へと届けられるのは、他者への、世界への、か細い糸なのだ。それはペネロペが休みなく手にした糸だ。目には見えない、けれど、縦糸と横糸のあいだを進み、知覚できぬ形でタペストリーを創る糸。チャンの絵画もまた、同じ動きに貫かれている。囁くように、墨の震えるような移ろいのなか、期待も甘受もせず、繰り返されるモチーフの背後に希望という息吹を浮かび上がらせるのだ。そしてその息吹は、まっすぐに、たゆまず、絶え間なく、続いていく。

 

*ホメロスによる古代ギリシャの長編叙事詩『オデュッセイア』